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マグカンさんの作品:【第八十三回】人形遣い 吉田和生さん

関西にいる「シュッとした」人たちから「シュッとした」お話を聞きたくて始めた、MAGKANインタビューコーナー!

第八十三回は、

文化功労者で、重要無形文化財保持者(各個認定)である、 人形浄瑠璃文楽座の人形遣い 吉田和生さん にお話をうかがいました。人形遣いとして弟子入りした経緯や、師匠である吉田文雀さんとの思い出を語っていただいたインタビューです。

弟子入りした頃、文楽には野球チームがあった

──2025年の国立文楽劇場の新春イベントでお姫様の人形を遣って、鏡開きをされていましたよね。


和生(以下、K):
はい。韓国では「人形の動きが可愛い」とのことでその時の動画がバズったと聞きました。

──韓国で! 私は日本のSNSで動画を観ました。舞台上の演技だけでなく、木槌を使った日常の動きでもこんなに感情が分かるような動きをするんだ! と、とても驚きました。

K: そうでしたか(笑) 僕たちは、普段から人形を遣って芝居をするのが日常茶飯事なので、刀を持ったりお箸を持ったり、鏡開きの時も普通のことをしただけなのですが。

──あれほど人形を動かせるようになるのに、人形遣いの方はどんな修行をしているのだろう、と調べたのですが、「足に10年、左に15年」と言われていてこちらもまた驚きました。

注釈:人形浄瑠璃文楽では、一体の人形を三人の人形遣いで操作します。かしら(人形の頭部)と右手を遣う「主遣い」、左手を遣う「左遣い」、足を遣う「足遣い」とそれぞれ称されています。文楽の場合は、「人形を操る」ことを「人形を遣う」というので、そこを起源に生まれた独特な表現です。


K:
僕が昔、人形の解説を任された時に「足(遣い)で10年、左(遣い)で15年って、25年もやったら人生終わりませんか」と言われたことがありました(笑) 足遣いは腰を落として重心を低い位置のままで身体を動かさないといけないから、身体が柔らかい若い時じゃないと足を遣う姿勢ができません。だから一番最初は足に10年…って言われていますが、本当に足だけで10年やってるわけではなく足遣いとしての修行を積むのと同時進行で、子役の人形の主遣いとかその他の人形(一人遣いの人形など)を遣って修行しています。

──なるほど。先日「文楽鑑賞教室」で小学生の男の子が足遣いの体験をしていましたが、「腰が痛い」と言っていたので、若いうちから足を中心に経験を積んでいくのが大事なんですね。

K: そうですね。昔は中学生で弟子入りする人も多かったです。僕は19歳でこの世界に入りました。同時期に入った(吉田)玉男さん、(桐竹)勘十郎さんは当時は中学生でした。その頃若い人がたくさん入ってきてたこともあって、野球チームがあったんですよ。

──野球チーム!?

K: 当時はスポーツと言えば野球だったから。人形部だけで組んで、三味線部も作っていたかな。人形部のチームはけっこう強くて、試合していたらよそのチームが見ていて、「今度うちとやりませんか」って誘われるくらい。それなりに強かったです。

──そんなによく試合をされていたんですね!

K: 巡業の運搬用の車にボールとバットとグローブも積んでもらって、公演中でも試合をしていました。朝7時から2時間。その後、11時から舞台に出演して…。そういう日は野球に参加したメンバー全員に「絶対に眠いとかしんどいとか言ったらあかん」と箝口令が敷かれていました(笑)

──先ほど19歳で弟子入りしたとおっしゃっていましたが、この59年間人形遣いをやってこられて、どこに一番面白さを感じていますか?

K: (人形遣いは)仕事だから面白くはありません(笑)

──えっ!

K: 幕が下りてお客さんが喜んでくださったらそれは嬉しいです。しかし自分が納得できない部分も必ずあって、悩むこともたくさんありますから。仕事だからこそ、です。だから羨ましいです、師匠(吉田文雀さん)が。師匠は趣味と職業が一致しておられたから。本当にずっと人形の芝居のことをおっしゃっていました。

 

人形を遣って舞台に出る、そんな仕事に不思議な好奇心を覚えました

──そうなんですね。ちなみに和生さんのご趣味は…。

K: 僕は特定のものがないんです。だから「趣味は?」って言われるのが一番怖いです(笑) 色々なものが好きなので。乱読もいいところで本もたくさん読んでいました。小学校6年生の頃に『三国志』を読んで「面白いな」と思ってからずっと読んでいて。高校3年生の時に病気に罹りまして一年間程休学した頃には、昼と夜が逆転してずっと本を読んでいました。

──一年も休学を!

K: 担任の先生に病気のことを報告したら、「今の君の歳だと一年は大きいけど、50歳と55歳は大して変わらなくなる」って言われました。「なるほど」と思って休学を決めたのです。その時に漆芸家の松田権六さんの本『うるしの話』(岩波書店刊)を読んで、「絵を描くのも好きだから伝統工芸の職人になれるかな」と思い始めました。

──漆芸家になろうとは思わなかったんですか?

K: 権六さんの作品の写真を拝見して、作品の力に圧倒されて諦めました。昔、東京の国立劇場の楽屋に漆芸家の先生が来られて、権六さんの話をしたら「あれは漆芸家の中ではバイブルみたいな本で、あの本を見て何人かは入ってきます」とおっしゃって「やっぱりそうか」と得心しました。

──そこからまずは何かしらの職人に、と考えておられたんですね。

K: 東京の芸術系の大学に行くことも考えたのですが、その時の担任の先生に「大学というところは、大卒じゃないと就けない仕事に就くためか、4年間で進路を決めるために行く、その2通り」と言われました。自分は、その両方とも当てはまらなかったので大学に進むことは諦めて、代わりに3、4年遊ぶことにしたのです。

──そんなきっかけだったんですね。

K: 当時は、あっちこっち回りました。京都国立博物館の国宝修理場とか、文楽の人形のかしらを作っている大江巳之助さんのところとか。事前にハガキを送って見学に行きました。その流れで文楽も観に行って。その時は、それほど面白いものとは思わなかったんです。

──そうだったんですね!

K: 文楽を全然知らないわけじゃなかったけど、舞台を観たのは初めてで。人形を遣って舞台に出る、そんな仕事に不思議な好奇心を覚えました。また、人形遣いは自分がしゃべらなくて済むのがいいなと思いました。

──弟子入りされて、文雀師匠とはどんな風に過ごされていたんでしょうか?

K: それが師匠のおかみさん(奥様)より長い時間一緒にいたような付き合いでした(笑) 10年くらい経った頃かな、師匠に「構える時は肘が前に出ていないとダメですよね?」と尋ねると、自分はそれをわかるのに、20年かかったと。ご自身は、足遣いを少し経験してすぐ左遣いに回ることになって、人形を動かすことばかりを考えていたので、しばらくは構えが良くなかった。良く理解できた、とおっしゃってくださいました。そういう話をしながら帰った時もありました。

 

師匠は叱るというより、口をきいてくれない

──師匠から叱られる時はどんな感じでしたか?

K: 師匠は叱るというより、口をきいてくれないんですよ。舞台が終わってまず師匠に「ありがとうございました」ってご挨拶に伺うと、「ん」としかおっしゃらない。つらかったですね。「あそこはこうしたらいい」ってその場で指摘されるなら良かったのですが。

──何がダメだったかは自分で考えろ、ってことでしょうか?

K: 2、3日後に教えてくださいます。「和生、あそこはこうせんとな」と。

──わあ…。

K: 人形の着物の着付けも自分たち人形遣いがするのですが、ある程度できたなと思っていると、それをちょっと見た師匠から「それは舞台に出せない」と言われて、糸を全部切って最初からやりなおしです。こうしたことでも、2、3回程経てから「そこはそうではなくてこう留める」と教えてくれる方でした。

──やっぱりすぐには教えてもらえないんですね。

K: 師匠には着付けのことはよく言われて、「とにかく綺麗であること」にこだわっておられました。例えば、昔は本公演のあとに勉強会がありまして、僕も含めて若手は公演で先輩が遣われていた人形を「明日からお借りします」とお願いをして借りに行っていました。ある時、師匠が、僕が借りた人形を見て、「糸切って衣装と道具返してこい。わしが人形作るから、明日からこれ使え」と。

──せ、先輩に借りているのに…!

K: 師匠は、自分が持ってみて遣いやすいかどうかがわからない間は、どんな人形でも遣うものではないとおっしゃいまして。他の若手は人形をお借りできても、僕だけは師匠のそうしたお考えからお借りできなかったので大変でした。

 

「玉織姫に首を上げるような力があると思うのか!」と言われた

K: 僕は師匠の足遣いとか左遣いをしている間、出番の前など師匠が人形を持っている時にぼそっと色々な芝居に関わる話をされていました。僕にはそれらが今でも教科書のように思い出されます。

──それは聞き逃せませんね。

K: 僕達の世代は初役を頂くと新聞社などの取材で「初役ですけど、師匠から何か言われましたか?」とよく聞かれます。しかし初役が来てから教えてもらうことはありません。というのも、役が来る頃になってもその役の下地はそれまでの師匠との会話でインプットされているからです。師匠の手伝いをしている間に師匠の芸を見て30年、40年という年数で役の土台を自分で作っておくことが大事です。

──傍にいて、吸収し続けるしかないんですね。

K: 一度、稽古の終わりに「文雀さん、(和生さんへの指導を)もうちょっと緩めてあげて」と他の人から言われたことがありました(笑)

──えっ! それはどういうことですか?

K: まだ人形を遣って10年足らずの時に『一谷嫰軍記・須磨の浦の段』の玉織姫の役を頂いて、師匠が左遣いをしてくださったことがありました。玉織姫は重傷を負って目も見えなくなった状態で、敦盛の首を膝に乗せて名残を惜しむという場面を稽古していた時、敦盛の首を持ち上げて頬ずりしたり、動かして表現しようとすると、師匠が「玉織姫に首を上げるような(体)力があると思うのか!」と言われました。

──ああ、玉織姫も斬られているから…。

K: そして左遣いの師匠は敦盛のたぶさ(髻)を持って膝に置いたっきり、首を全く動かそうとされなかったのです。そんな状況で、10年足らずの経験の僕では何もできません(笑) 人形を前かがみにしてしまうと、お客さんには何しているのか分からなくなりますし。こんなことがたくさんありました。


──他にはどんなことがありましたか?

K: これも10年足らずの時に、僕と勘十郎さんで『曲輪文章』の夕霧と伊左衛門をすることがありまして。師匠が夕霧をしていたんです。夕霧の人形はとても重くて、毎日持って重さにだけでも慣れておこうと毎日持つようにしていました。それで千穐楽の前日、「これなら何とか持てるかな…」と思っていた頃に、「和生、そう持ったら誰でもできるねん」と言われました。

──千穐楽の前日に!?

K: 僕が毎日、夕霧の人形を持っているところを師匠は見ていたのに、ですよ(笑) 「その持ち方で、夕霧が病気で今日明日もわからん命という役柄というのは伝わるのか」と、頭を落とすように言うんです。夕霧は傾城(遊女)の役だから、かしらがすごく重たいにも関わらず、左手一本で重心を前にしないといけない、と。

──手首が折れてしまいそうですね…。

 

(文雀師匠は)上手い。 僕の芝居と師匠の芝居では、今でも弟子と師匠ほど力量が違う

──役の理解で芝居が大きく変わりますね。

K: 『三十三間堂棟由来』の柳の木の精である女房お柳と、『蘆屋道満大内鑑』の狐が化けた女房葛の葉という役では、それぞれ人間の姿に身をやつし、正体を見破られた後に子別れをするという共通点があります。それを師匠が「柳と狐では全然違う」と言って、それ以上は教えてくださらない。

──えっ。

K: あとは『妹背山婦女庭訓』の後室定高と、『仮名手本忠臣蔵』の女房戸無瀬は両方、自分の娘の首を打ち落とすという役です。片方は躊躇なく娘の首を切るがもう片方はすぐには切れない。それも師匠は「何故だと思うか?」と言うだけ。

──わぁ~…。

K: こういう感じで師匠は答えを教えてくださらないのですよ。自分で考えるしかない。僕は柳の精と狐の違いは血が通っているかそうでないかだと考えます。それから、定高(『妹背山』)の方は実の娘の首を討つが、戸無瀬(『忠臣蔵』)が討とうとするのは義理の娘。戸無瀬はたとえこの後に一緒に自害したとしても、世間の人は何と言うだろう、というような世間の建前もいろいろ複雑に入ってくるから、刀をなかなか振り下ろせないのではないかと考えながら、それまでの芝居を作っています。人それぞれなのでこれが正解ということではないんですけどね。

──別のインタビューで、たまに文雀師匠の映像を観返してるとおっしゃっていましたが、やはり芝居に違いを感じますか?

K: 違いますね。上手い。僕の芝居と師匠の芝居では、今でも弟子と師匠ほど力量が違う。

──そうなんですね…!

K: やっぱり上手い。僕も最近は「この役は最後かな」と思って取り組むので、師匠はどういう風に遣っているのかを観るんですよ。

──文雀師匠の芝居は何が違うんでしょうか?

K: 難しい質問です(笑) 性格的に、僕と師匠とはちょっと違うところがありますし。師匠は女形を主にやっていたから、やっぱり女形が上手いなと思っていますね。僕は女形になりきれないところがある。

──性格の違いですか。

K: 師匠は女形の綺麗な役のほうが良かったと思います。お爺さん役は何回か、先代の玉男さんに「頼むわ」と言われて「ええ~」って言いながら時々は遣っていましたね。『伊賀越道中双六・沼津の段』の平作とかね。

 

好きな役を言わないようにしているんです

──今は和生さんと玉男さん、勘十郎さん、この御三方が同時期に入門した「三羽烏」と呼ばれていますが、三人でこれを一緒にやりたい、という演目はありますか?

K: 一回だけ実際にやりましたよ。『彦山権現誓助剣』で、まだ50歳過ぎたくらいの頃かな。これは立ち回りがいろいろある芝居ですけど、お園・京極内匠・毛谷村六助の三人の役が上手く合わないとできない芝居で。それぞれの師匠が三人でやっていたこともあったから、制作の人に「何かやりたいのある?」って聞かれた時に言ってみたら上手いこと叶ったんです。

──もう一度やりたいですか?

K: もう、できません。「瓢箪棚の段」で瓢箪棚という棚を作って、京極内匠がその棚の上から飛び降りるような立ち回りがありますが、そういうのは体力的に無理になってきますね。

──では、体力のこととかは関係なく、一番好きな演目や役はありますか?

K: それは言わないようにしています。

──そうなんですか!

K: 演目や役は制作が決めることだし、こちらは観ていただいて、評価していただく、それだけですから。芝居が決まって、役が決まったら、一生懸命やるだけです。これが不思議なもので、若い時から遣いたかった役が来た時に張りきってやって評価が良くなかったり、そうでもなかった役で、取り組んだ役が逆に良かったりします。

──それはまた不思議ですね。

K: 最初に師匠に言われたんですよ。役に対しての不平不満は一切言うなって。「悪い役でもやって、"お! あれはいい役やな"って思ってもらえるようにしなさい」と。

──どうしても好きになれなかったり?

K: 好きとか嫌いとかよりも、理屈が合わない時がありますよね。理路整然としてない脚本でも人気があったりするので、自分で自分の役をごまかして、納得しないと仕方ないところはありますよね。

 

20歳で入って、30年経ったらようやく50歳。そこで花がつくかどうか

──お弟子さんたちにもそう言ってらっしゃいますか?

K: 弟子たちはまだ役がつくところまで来ていません。30歳くらいになった者はその他大勢なんかついていますけどね。彼らが40歳、50歳になった時に僕がいてるかどうかわからないから、とにかくその時に困らないように、とは思っています。20歳で入って、30年経ったらようやく50歳でしょう。そこで花がつくかどうかですから。

──文楽での修行の環境がどんどん変わっていきますね。

K: 今、みんな身長が伸びていますから、今の舞台ではいろいろ問題が出てくるかもしれませんね。今は手摺(人形にとっての地面になる仕切り板。人形遣いはこの高さまで人形を上げて遣う)が2尺8寸で90cm弱ですけど、いつかもうちょっと高くする時がくるかもしれませんね。

 

 

令和7年爽秋文楽特別公演

 

公演期間  2025年9月6日(土)~2025年10月14日(火)
演目 『
恋女房染分手綱』 道中双六の段、重の井子別れの段
『日高川入相花王』 渡し場の段
『心中天網島』 北新地河庄の段、天満紙屋内の段、大和屋の段、道行名残の橋づくし
『曾根崎心中』 生玉社前の段、天満屋の段、天神森の段


吉田和生さんは『心中天網島』の粉屋孫右衛門の役。

詳細は公式HPへ。
https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/bunraku/2025/7/

 

Q.「シュッとしてるもの」って何だと思いますか?
K: カッコいいことですね。 生き方でも、姿勢でも、行動がカッコいいっていうのが「シュッとしてる」と思います。
──身近な方でいらっしゃいますか?
K: 先代の吉田玉男師匠が遣われる人形を観ていると、「ああ、カッコいいな。シュッとしてるな」と思います。
Q.自分の名前で缶詰を出すとしたら、中に何を詰めますか?
K: 思えばいつの世も、何で欲張りな人間が絶えず出てきてしまうのかと。僕は終戦後すぐに生まれましたから、物が無い時代の生活を知っています。お金持ちになろうとするのもいいのですが、さらに欲を出すから犯罪や戦争を引き起こすなどややこしくなるのではないかと思っています。「足るを知る」と言葉がありますけど、缶を開けたら、そういう欲の部分との折り合いがつくようになる缶詰が良いですね。

 


吉田和生

国立文楽劇場 X

愛媛県出身。1947年生まれ。2017年に人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定。2024年には文化功労者として顕彰された。漫画は手塚治虫や武内つなよし、ちばてつやが世代。先日本棚を片付けていたら『浮浪雲』、『三丁目の夕日』(ともに小学館刊)、『復刻版 のらくろ』(講談社刊)等が出てきたそう。

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1日前