

関西にいる「シュッとした」人たちから「シュッとした」お話を聞きたくて始めた、MAGKANインタビューコーナー!
第二回は、
漫画『味いちもんめ』(小学館刊)を連載しながら、大手前大学のメディア・芸術学部マンガ制作専攻で教授をされている、 漫画家の倉田よしみ先生 にお話をうかがいました!デビューから40年が経ち、今では連載、教授のお仕事、さらには定期的に海外で漫画を広める活動をされる中、一体何を見て、何を感じているのか、その姿に触れるインタビューです。
〆切の何日間か前は仕事場につめっきり。外にも出ず、ほとんど寝ないでやっています。
──隔週連載を持ち、大学で授業もして、さらには海外で漫画のワークショップを行われているとうかがいました。漫画のお仕事がある中で忙しさの想像がつかないのですが、一ヶ月間、どんなスケジュールで過ごされているんでしょうか?
倉田(以下K): 水曜から金曜までは大学の授業があるので、東京の仕事場から関西に出てきています。仕事場にいるのは土曜から火曜の間ですね。海外の仕事はなるべく土日にスケジュールを組むようにしています。
──作品の締切が近い時はどうされているんですか?
K: 連載は月二回の掲載なので、それに合わせたスケジュールを組んでいますが、〆切の何日間か前は仕事場につめっきり。外にも出ず、ほとんど寝ないでやっています。
──寝ないで…!?
K: 寝ないと言っても、ちょっとうたた寝くらいはしますよ。僕の場合は10分、20分寝ればそのあと何時間か仕事を続けられるっていう感じなので。あと、自分で自分を管理しているのが大事ですかね。他の人から「この仕事を15時までしたら、ちょっと休んで続きをやって」って言われてやるのでは厳しいかな。自分で自分の身体をコントロールして、「今ここで10分休んだほうが良いな」と判断しているから保っているんだと思います。
──長年執筆してきたからこそ得たリズム、なんでしょうか?
K: ちばてつや先生のアシスタントをしていた時に、そういう描き方のリズムになっちゃいましたね。でも逆を言えば高校の時からかな。高校の時も、ずっと夜中描いていて、代わりに授業中ちょっと休んだりして(笑)。
──では、漫画家になりたいと思ったのは高校の時ですか?
K: そうですね。高校一年生の時に僕の前に座っていた子が、『COM』と『ガロ』という漫画雑誌(※)を教えてくれたんです。『サンデー』(小学館刊)や『マガジン』(講談社刊)とは違う漫画の世界があったんで、「面白いな」と思って描き始めました。それから、雑誌でちば先生のアシスタント募集を見つけて、卒業と同時にアシスタントになったんです。五年半くらいそこで学んで、卒業してから新人漫画賞でデビューしました。
※『COM』と『ガロ』…1960年代に刊行された漫画雑誌。両誌はライバル関係とされた。『COM』は手塚治虫『火の鳥』や石ノ森章太郎『サイボーグ009 神々との戦い』、『ガロ』は白土三平『カムイ伝』や水木しげる『鬼太郎夜話』を連載し、のちの人気漫画家を多数輩出した。

アメリカ、韓国、台湾、中国は何ヶ所か行って、マレーシア、モンゴル、フランス、あとウクライナも。
──それが今では、海外でも漫画について教え広める立場に…。どんな国に行かれたんですか?
K: アメリカ、韓国、台湾、中国は何ヶ所か行って、マレーシア、モンゴル、フランス、あとウクライナも。
──そんなに!具体的にはどんな活動をされているんでしょう?
K: 漫画に興味のある方に原稿を見せて質問に答えたり、ワークショップを開いたりしています。海外では、漫画家志望ではなく「漫画をちょっと描いてみたい」という方のほうが多くて。そもそも日本の漫画家と交流する機会がほとんどないんですよね。
──どんな質問が出てくるんですか?
K: 海外は作画をデジタルでする方ばかりなので、作画面の質問はあまりなくて、「どうすれば漫画家になれますか」というような質問が多いですね。アメリカのシアトルに行った時は、漫画を描くよりもコスプレとかで楽しむ人が多いせいか、「日本の漫画は何であんなにキャラクターの目が大きいの?」と聞かれたこともありました。
──漫画家志望の方とお話しする時もありますか?
K: ありますね。その意識が高かったのはマレーシアの人たちかな。日本の漫画家志望の方に比べると、熱意が表に見えやすくて。ただ、海外って日本のように指導する編集者がいないんですよね。出版社の社長です、という人には会うけど、編集者です、という人には会ったことがない。
──そんな風に海外での活動もしながら執筆もして、大学でも教壇に立って、と精力的に動かれていますが、その原動力は一体どこから…?
K: 「いろんな人に会いたい」って気持ちですね。別に最初はこんなに動くことになるとは思っていなかったんですけど、一回やってみるとすごく面白くて。海外は食べ物も楽しみだし。いろんなことが重なって「行ってみたい」「会ってみたい」という思いが強くなりました。
──ちなみに印象に残っている料理は何ですか?
K: ウクライナはおいしかったですね。あと忘れられないのが、中国。ザルの中に食材がいろいろ入っているんですけど、その中に蛇とかがいるんですよ。
──蛇!?
K: 池には鯉とか。で、その中からコレって選ぶとその場で調理してくれるんです(笑)。嫌いなものがないので、現地の人が食べていて、健康被害がないものなら大丈夫だと思って何でも食べますよ。

別に場所によっての違いはなくて。結局は本人次第で、漫画家になりたいという気持ちの強さが重要だと思います。
──その「会いたい」気持ちがあるからこそ、関西で学生に漫画を教えるお仕事もずっと続けていらっしゃるんですね。どんな指導をされているんですか?
K: 悩んでいる子と話をすることが多いんですけど、本当に自分が描きたいものって何なんだろって苦しんで、途中で漫画を描けなくなる子がいるんですよね。自分が描いていて楽しいものをただ描けばいいはずなのに。でも、みんな苦しんでやめようとする。自分から壊れない壁に向かって突進して行っているような。その脇に出入り口があるんだから、そっちに向かって歩けばいいんだよ、と思うんだけど。だから、苦しんで悩む必要なんてなくて、楽しんで描けるものを描いたら、とよく言っています。そんな卒業生とは今も付き合いがあって、仕事場に二泊泊まっていいですか、とかよく連絡があったりするんですよね。毎年、卒業生がコミケ(※コミックマーケット。東京で年に2回行われる同人誌即売会)の時は、四、五人くらい仕事場にごろごろと…。
──四、五人も!?(笑) でも、学生さんと濃いお付き合いをされているってことですよね。その中で、漫画家志望の若い方々にもっと伝えたいなと思うことはありますか?
K: 本当に漫画家になりたいんだったら、もっと積極的に編集部にアプローチをすればいいのに、と昔からずっと言っていますね。いろんなアプローチの仕方があるのに、何で一歩踏み出さないんだろうか、っていう子が変わらず多いです。
──これだけ発表の場が増えて、SNSで情報を得る機会が増えていても、そこは昔から変わらないものなんですね。
K: どうやって自分の作品を編集の人に見せたらいいのかとか、作品を見てもらうまでのノウハウが分からないのかな。東京の場合は出版社が近いから、あそこに行けばいいんだって分かりやすいですけど、関西にだってマッグガーデンの編集部ができたわけだし、データがある今はいくらでも方法があるのに。
──海外にいても、日本でデビューできる時代ですもんね。
K: やる子はやるんですよ。で、それで何とかなったりするんですよね。関西にいると、漫画家になるなら東京に行かないとっていう意識が強いなと感じる時もありますけど、別に場所によっての違いはなくて。結局は本人次第で、漫画家になりたいという気持ちの強さが重要だと思います。東京の専門学校に行っても引っ込み思案な子はいるし、地方に行ってもすごく積極的な子もいるし。今の人たちのほうが僕の時代の人たちよりも臆病になっているのかな、という気はします。

やっぱり、生活するにはどうすればいいかっていうことを考える。そのあたりのジレンマを感じながら今も描いてはいるんだけど…。
──次世代の漫画家を送り出す仕事をする傍ら、ご自身の漫画家人生としてデビューから40年。今後もし、全く違うジャンルで漫画を描くとなったら、どういうものが描きたいですか?
K: わけの分からないようなものを描くかもしれないな。
──き、気になります!
K: 何かぐるぐる回っているような感じの。列車が走って行って、空間のねじまがったところを飛んでいったりとか…。商業誌で考えると、起承転結とかを考えて漫画っていうものを描くと思うんですよね。でも、自分がいま描きたいもの、自分の心の中にあるものだけを描くんだったら、別にキャラクターが地面についていなくていいんですよ。だから人間じゃない、うにょうにょぐにょぐにょしているものを描いているかもしれない。
──まだ描いてはいないけど、描きたいものが山ほど頭の中にあるんですね。
K: いや、描きたいものに通じるかって言われるとそこは難しいんですよね。漫画家としてやっているから、自分が描いたものがある程度分かってもらえないと嫌だなと思うところもあるので。じゃあ分かってもらえるようにするにはどういう描き方がいいのか、って考えると結局は普通の漫画になっちゃいそうですけど。
──描きたいものと、分かってもらえるものは別物だと…。漫画家として、分かってもらえるものにしたいと思って描くようになったのはいつ頃からなんでしょうか?
K: 高校生の時に永島慎二さんの『漫画家残酷物語』(※)を読んでいるんですよね。お金のために生きているんじゃない!でも商業誌に載って原稿料をもらって生活しないと漫画を描けないよなあ、ということが描かれていて。やっぱり、生活するにはどうすればいいかっていうことを考える。そのあたりのジレンマを感じながら今も描いてはいるんだけど…。
※…『漫画家残酷物語』:1961年から連載された「漫画家を描いた漫画」の元祖的作品。一話完結のスタイルで、青年漫画家たちの漫画への葛藤や苦悩を描いている。
──今も、感じてらっしゃるんですか。
K: そうですね。だから今でもあの永島先生の作品は読むんですよ。昭和30~40年代の話なんで今の時代とは全然違うけど、登場人物である漫画家の気持ちを見ていると、その中のどこかに自分もいるなあと思うんです。自分の気持ちを新たにして、チャレンジしてみたいな、また新しいのをやってみたいなって思わせてくれるので、今も読み返しては漫画を描き続けていますね。
Q.「シュッとしてる」ものって何だと思いますか?
K: 『サイボーグ009』の加速装置。
Q.自分の名前で缶詰を出すとしたら、中に何を詰めますか?
K: 一日だけ漫画家になれる薬。学生は漫画家になりたいって言うけれど、本当に漫画家になったらこんなに大変なんだよ、一度体験してごらん、それでもやりたかったらやればいい、みたいな。 でも具体的なものなら、石ころ。僕はいま一生懸命漫画を描いているけど、人間はひとつの路傍の石で、そこらへんに転がっている石と同じなんだよ、というか。一生懸命に悩んでいることも、自分を石だと思えば悩まなくていいと思うんですよね。
倉田よしみ

【 公式サイト 】
ちばてつやのアシスタントを経て1978年に『萌え出づる…』で漫画家デビュー。代表作である『味いちもんめ』は中居正広主演のもとドラマ化。現在も執筆活動を続ける傍ら、マンガサミットへの参加、大手前大学で教鞭を取るなど、多くの若者に「漫画」を伝え続ける。
